本の話

【本の話】上間陽子さん『海をあげる』ー痛みを少し引き受けるー

上間陽子さんのことを私に教えてくれたのは、恋人だった。

在宅フリーランスとして働く私と恋人は、朝起きてから仕事ができる頭の状態になるまでダイニングで軽く食事しながら会話をするのが日課だ。

ある日、恋人は前日に読んだノンフィクションの本の話をしてくれた。内容はこういうものだ。

夫に顔が変形するほど殴られた女性が、家の外に出られないので「子供を保育園に連れて行って」と女友達に頼んだ。駆けつけた友達はボコボコの顔の女性を病院に連れて行き、自分と女性の子供たちの面倒を見ながら、女性が夫と離婚するための相談に乗った。

離婚の際に男に親権を奪われないよう、暴行された傷の写真を女性と友達それぞれの携帯電話のカメラで撮っておくことにした。女性の夫が記録を破棄しても、友達の携帯電話にも同じ写真があるから証拠として残るということだ。

友達は写真を撮る時にボコボコに殴られた女性のアザだらけになった顔のようなメチャクチャな化粧をしてきて「一緒に写真を撮ろう!」と言った。その行為に女性も思わず笑ってしまい、笑うと傷だらけの顔が痛んだ。友達は大丈夫じゃない状況で「大丈夫?」とは聞かないで笑わせてくれたのだ、とそう恋人が私に聞かせてくれた。

それは上間さんが調査してきた沖縄の女の子たちの話をまとめた『裸足で逃げる』という本の「記念写真」という章に書かれたエピソードだった。上間さんは大学で教授をしながら、問題を抱える少女たちの調査や支援をしてきた人だとも教えてもらった。

話を聞いているだけで込み上げるものがあったのに、そこから自分で本を読むことなく、2人の女性の人生を想像してみることもなく、私は自分の半径1メートルの世界へと戻っていった。他人の痛みを一時の感動に変えて消費した。「すごい話だねぇ」と言っておしまい。私には関係ない。相互に影響しあうことのない世界。胸を痛めるポーズをとりながら、どこかでそう思っていたんじゃないか。

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2021年の11月、上間さんが地元沖縄で子育てする自身の生活を綴った本『海をあげる』がノンフィクション本大賞を受賞した。YouTubeに公開された贈賞式を夕食を食べながら恋人と一緒に見た。

「このたびは、ほんとうに、すばらしい賞をありがとうございました」

上間さんは優しい声で、言葉と言葉の間に一呼吸おきながらゆっくり話す人だった。受賞の連絡を受けての想いを述べたあと、上間さんは沖縄という場所について語り出す。

「私の母は、思春期になった私が、夕刻から夜にかけて外出をするときに、手のひらに、家の鍵をにぎるように指示し、誰かに連れ去られそうになったら、まずは走って逃げること、そして、捕まえられたらとにかく暴れることを教えました。今日、母が教えた通りにしています。こうやって、歩くように、言われていました」

そう言って上間さんは鍵の上部分を手のひらに収め、先の尖った部分を手から出すように握りしめた。鍵を武器にするための持ち方だった。上間さんのお母さんが上間さんに「鍵を武器にしろ」と教えなくてはならなかったのは、少女が犠牲となったあまりにも酷い事件が家のすぐ近くで起きていたからだ。レイプされ、殺され、捨てられたのが、自分の娘でなかった保証がどこにもないからだ。

沖縄で暮らす人が感じる痛みについて語る時、上間さんは相変わらず言葉と言葉の間に一呼吸おきながら、優しくゆっくり静かに語った。

夕食を食べながら見るつもりだった私と恋人は、箸を止め黙って上間さんの話に聞き入った。スピーチが終わると恋人は「本当に怒っている人はこんな風に話すんだね」と言った。

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上間さんの話を真剣に聞いておいて、話が終わった途端にサッとまた半径1メートルの世界に戻るのはイヤだと思った。私はその日のうちにKindleで『海をあげる』を読み始めた。

『海をあげる』は痛みについての本だった。最初の章には上間さんが東京に住んでいた頃の話が書かれている。結婚していた人と上間さんの友達が不倫をしていたとわかり、深く傷つき絶望し、食事ができなくなったエピソードが書かれている。それから、つらい時に駆けつけてご飯を作ってくれた友達のことが書かれている。悲しみのようなものが消えることはないけれど、小さな傷となって馴染むのだということも。

再婚し、娘ができて、地元の沖縄に住むことになった上間さんの痛みは、沖縄の痛みにシフトしていく。住んでいる地域の水道水が汚染されていて、上空を飛ぶアメリカ軍の外来機に娘が怯え、ずっと地元で暮らしてきたおばあさんから戦争中に逃げながら家族を1人ずつ亡くした話を聞く。痛みは日常の中に散りばめられていた。どこに住んでいる人にも痛みはある。沖縄に特別凝縮されているだけで、沖縄だけにあるわけじゃない。本を読むことは痛みを少しだけ引き受けることだ。上間さんはあとがきに「この本を読んでくださる方に、私の絶望を託しました。」と書いている。上間さんの絶望は私にはわからない。でも少しだけ、痛みを引き受けました。

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『海をあげる』を読んだあと、続けて『裸足で逃げる』も読んだ。恋人から沖縄の女の子のエピソードを聞いた時は「すごい話だな」と思っただけだったけれど、実際に読んでみると私の中にあったいろんな記憶が掘り起こされてきた。

子供の頃、母親が濃い紫のアイシャドウをつけていたいたこと。大人になって「なんであんな色のアイシャドウをつけてたの?」と聞いたら、父に突き飛ばされてできた顔のアザを隠すためだったと知ったこと。15歳で1人で子供を産んだ中学の友達のこと。その子が妊娠する前に男の子から受けたひどい扱いについて相談されたのに、何もアドバイスができず適当な慰めの言葉しかかけられなかったこと。

痛みは私の半径1メートルにも散りばめられていて、私はそれすら忘れて生きていたのだと思い知らされた。たいそうな問題を語る前に、目の前に絶望している人がいないか見ろよ。今ものすごくツラい思いをしている友達がいるかもしれない。そんな時、連絡してもらえる人間でいたい。何ができるかわからないけど、痛みを少し引き受けよう。

エッセイで紹介した本

『海をあげる』 上間陽子(著)筑摩書房 2020年10月29日出版

『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』 上間陽子(著)太田出版 2017年2月1日出版

上間さんの情報

ノンフィクション大賞の上間さんの受賞スピーチの様子はこちらで見れます。

上間さんは地元の沖縄で、若年で出産するママを支援するシェルター「おにわ」の運営もしています。

上間さんが仲間と立ち上げたシェルター「おにわ」の日記

『ちくまWEB』に掲載された上間さんのエッセイ「おうちにおいで」

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